日記

2020年02月18日

鈍感が優しい人を苦しめる

少し前、槇原敬之が覚醒剤所持で再逮捕された。
最初の逮捕は随分前だが、人気が落ち着き始めた頃で大して興味も無かったので「あの人、捕まったんだ。そういえばヤバそうな目つきしてたかも」ぐらいの認識だった。
しかし彼の脅威は、復帰後にSMAPへ「世界に一つだけの花」を提供して爆発的な売上を記録したことだ。いくら天下のSMAPと言えど、前科のある者が提供した楽曲であんなに売れたのは、やはり曲の力であり作者の力も大きく貢献したと言わざるを得ない。どん底に近いマイナスから、その状況を作り出すことができたのは脅威としか言いようがないだろう。
だから正直、彼に前科があったなんて忘れていたし、今回ばかりは「感動を返せ」と思った。海外のロックミュージシャンなんて当たり前のようにクスリをキメてるし、日本でそういうミュージシャンがいても普段は「そんなもんだよな」と納得するのだが、彼の場合は音楽性も相まってか「感動を返せ」と先に思ってしまう。
しかし、今回書きたいのはそんなことではない。
SNSが当たり前に浸透した今、今回この件についても「自分の主張」の皮を被った「鈍感な自己中な意見」が蔓延している。
中でも「そもそも何で違法なものに手を出すのか分からない。」なんていう浅すぎる意見にはさすがに呆れた。本気でそう思ってるんだろうか。だとしたら、おめでた過ぎて羨ましい。
ここ数年、ミュージシャンや芸能人の覚醒剤絡みのニュースが多いが、その原因の根底に「人気商売」ということが付いて回るのは明らかだ。その人気にすがるタイプでも、やりたいことを優先するタイプでも、生活していくためには世間の人気は意識せざるを得ない。
それでいて沢山のスタッフが自分の仕事で生活しているのだから、社長ではなくとも同じようなプレッシャーと負担がずっとかかる。
そんな状態がずっと続いていたら、人間なんておかしくなるに決まっている。だからこそ、正しいガス抜きが必要なのだ。
やはり、一番いいのは家族を持つことではないだろうか。そっち側の負担も増えるが、はっきりとした居場所ができることは間違いなくプラスだ。
家族が難しければ、何でも話せる友人というのも精神を安定させる上で非常に力になってくれるはず。
しかしどちらも難しかったり、優しさ故に負担となれば、適量以上の酒や、手を出してはいけない覚醒剤にすがってしまう…というのは善悪どうこうでは無く少し考えれば分かるはずなのだ。

そういえば、先日「職場を体調不良で簡単に休む従業員が、何でそんなすぐ休めるか、本当に分からない」というツイートを見た。
このマネージャーは、今までに仕事を体調を理由に休んだことがないらしい。なるほど、それ自体は素晴らしいことだ。
だが、残念ながら世の中は当然そんな人ばかりではないし、むしろ管理する側なら自分のようなタイプは少数だと気付かなければ組織は成り立たない。
なんなら、その正しさに苦しめられている従業員が殆どのはずだ。
あの人みたいにちゃんとしなきゃ、と考えるうちにどんどん肩に力が入っていき、少しのミスも許されないプレッシャーが生まれていくことに、このマネージャーはおそらく気付いていない。ミスをするかしないかではなく、ミスを許されない環境というのは著しく従業員を疲弊させるのだ。
このマネージャーは良くも悪くも鈍感なところがあり、それが心優しい真面目な従業員を追い込んでいる。
これは、顔が見えるか見えないかの差はあれど、覚醒剤で捕まった有名人に対する「そもそも何で違法なものに手を出すのか分からない。」という意見に繋がるところもある…というか、根本は同じだし、そういう人が書き込んでいることは想像に難しくない。
様々な角度から世の中が恵まれていく中、自己中な鈍感と心優しい繊細は二極化していく。今みたいな時代に生きていきやすいのは鈍感の方だが、歩み寄った方がいいのも鈍感の方ではないかと強く思う。


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2019年12月23日

音楽聴くなら、サブスクよりも図書館を勧める話。

最近また図書館に足を運ぶようになった。きっかけは仕事で取り扱うテーマを題材にした漫画を読みたかったからだった。
図書館というのはめちゃめちゃ便利な施設で、10年ぐらい前まで毎週通っていた。
といっても書籍を借りることはあまり無く、どういう基準で選ばれているかよく分からないCDを借りまくっていた。
そこで知ったジャンルやアーティストも多く、当時音楽の道を志していた自分にとって非常にいい勉強の場となっていた。
あれから10年ほど経ち、図書館に行くことは全く無くなった。
その間に、世の中は飛躍的に便利になった。音楽はYouTubeやサブスクで、アーティストよりもジャンルで聞かれる時代。書籍も電子化が進んだ。
今となっては、図書館は静けさを売りにした自習場所としての役割しか担っていないかもしれない、なんて思っていた。

しかし、久々に足を運んで、図書館の価値はそれだけじゃないことが分かった。
図書館は、自分みたいなサブスク時代に馴染めないズボラな人間にとって救いの場だった。
探せば自分の聞きたい音楽が幾らでも探せるという、便利すぎるサブスク時代なのにどうも自分は馴染めない。
「自分の好きな音楽を探す」というだけの検索行為なのに、面倒なのだ。昔音楽の道を志していた人間にあるまじき感情だが、本当なのだから仕方ない。
あと、「音楽をジャンルで聞く」というのもあんまり好きじゃない。これは音楽の道を志していたからかもしれないが、どんな音楽でもその人の演奏や曲だから好きになるわけで、音楽性が似てても全然響かないことはあるし、逆もある。というか、そうじゃないとただでさえ狭い好きな音楽の幅がもっと狭くなってしまう。
だから「この曲いいな」と思って聞いてたところに「じゃあこれもおすすめですよ」って勧められるあのシステムは自分には不要だ。
その点、図書館はとてもいい。
相変わらずどういう基準で選ばれているのかよく分からないCDが沢山あって、自分が好きアーティストのCDもあれば、全く興味がないアーティストのCDもある。
資料数はサブスクに比べれば何百分の一かもしれないが、自分が音楽を聴くペースを考えれば十分。そして「案外限られた資料数の方が普段聞かない音楽に手を伸ばしやすい」ことに気付けたから、これからも図書館に軍配が上がることだろう。
きっと、自分みたいなタイプの人が今でも図書館に集っているはず。
そう考えると、図書館にいる人たちと触れ合うことは無くても仲間意識が湧く。

そうは言っても自分みたいなタイプは多くはないだろうし、ネットに強い高齢者だって増えてきている。図書館の未来もどうなることやらという時代だ。
そういう経緯もあり、再び愛用している図書館の素晴らしさを書き残すことにした。
これを読んだ普段図書館なんか行かない人が、年末に図書館に足を運んで魅力を知ってもらえたら、とても嬉しいです。


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2019年12月20日

立場が人を劣化させる話

今まで働いてきた中で、立場が人を劣化させる怖さを書いてみる。

どんな仕事でも、「人には責められづらいのに人を責めやすい」職種というのは存在する。
いわゆるお客様窓口は、それに該当する。「お客様の声」を伝える立場なだけに、制作チームを責めることは容易だ(責める、という表現は誤解を生みそうだが、要は意見を伝えるという意味)
責める内容がどうあれ、制作チームは「お客様の声」としてひとまず聞くしかない。何せ、制作に集中したい彼らの代わりに盾となって様々な声を聞いてくれているのだから。
自分はその立場に長いこと在籍していた。面倒な客やクレーマーも勿論いたが、逆に制作チームとのやり取りで居心地の悪さを感じていた。
自分の言うことに耳を傾けてくれると言えば素晴らしいが、そもそも制作チームとお客様窓口を分けてしまうと、それだけで考え方に齟齬が生まれてしまう。
組織が大きくなれば仕方のない部分ではあるが、主体性を持って全体のことを考えながら一方の仕事を誰かに任せるというのは至難の技だ。というか、そんな難しいことをしようとする人自体がなかなかいない。
自分の仕事を突き詰めれば突き詰めるほど、乖離は拡がり、責任のなすりつけ合いになっていく。お客様窓口が制作チームに心ないことを吐き捨てるような場面は数え切れない程見てきたが、そんなやり方でも優位に立ててしまうお客様窓口という立場は、明らかに間違った人格形成を手伝っていたように思う。
結果として、コミュニケーションを取るのが得意でそういう仕事をしていたのに、一方でコミュニケーションが取れない存在として扱われることに繋がってしまう怖さがある。何とも本末転倒な話だ。
しかし、無自覚でそうなってしまっている人は沢山見てきたし、逆にそれぐらい頑固なことを求められる場面もあるから、周りも正そうとはしない。一番危険なのは、その世界が当たり前になってしまうことだ。お客様窓口はあくまで職種のひとつでしかなく、目に見える技術職というわけでもない。
極端な言い方をすれば、手に職を持っているわけでもないのに、周りが耳を傾けてくれる状況は、余命幾ばくもない老人や裸の王様のような扱いや見られ方をする。これを劣化と呼ばずにはいられないだろう。
勿論、そんな状況を自覚して立場を盾に使ったりせずに成長していく人もいる。その先に顧客ではなく従業員の窓口という、マネージャー職がありそのためにキャリアを積むと考えることこそがセオリーなのだから。
「お客様窓口はクレームが多くてメンタルが大変」という世間的な難易度もあるが、「ある種恵まれた環境という危うさ」が付き纏うということを自覚し続けることが、最も本質的に高い難易度だと思った。


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2019年12月13日

キャッシュレスとダイエットは似ている。

そんなわけで、もう少しぼんやり思うことをまた書いていきます。

「キャッシュレス」というフレーズが浸透し出したのはいつからだろうか。
やはり安倍首相が慣れない口ぶりで「キャッシュレスを推進します。2025年までに決済比率を40%まで引き上げるのが目標です」と発表した辺りからか。
「キャッシュレスによるポイント還元は、消費増税の対策」なんて表向きは完全に見せかけで、誰がどれだけ使ってるかを管理したい目的があるのは明らかだ。
そんな冷めた視線をよそに、「◯◯pay」は令和元年の今年に流行語へノミネートされるほどよく聞くフレーズとなり、世の中へ浸透した。
そりゃあ1円でも安く買えるなら、戻ってくるのなら、飛び付くのが人間の性だ。しかも増税が絡んだ今回は店舗側が「実質安く売れる」というメリットまである。政策の真の目的なんか、いちいち考えていたら損するだけだ。その考えは確かにそうかもしれない。

自分もキャッシュレスは使っている。というか、キャッシュレスなんてフレーズが使われる前からクレジットカードは使用していたし、電子マネーで支払いもしていた。
ポイント還元の方も、元祖となるスタンプカードの頃から飛び付いて貯めていた。大した還元はないのに、得した気分になれる。そのためにやたらとスタンプを押してもらってた頃が懐かしい。
貯金を崩さないと支払えないような額をカード払いにして、ろくに計算もせず付帯するポイントサービスに期待したら大きく裏切られたことも何回もある。
そんなわけで、キャッシュレスに10年以上振り回されてきた自分が今思うのは、「こんなものに期待するな」ということだけだ。
たかだか数%の還元のために、無駄な浪費をしていては本末転倒もいいとこだ。
かと言って、生活する中で何も買わないなんて極端なことも現実的に無理な話。
付き合い方として大事なのは、ダイエットと同じで「いかに生活に組み込ませるか」だ。
日々生活する中で必ず購入しなければならない買い物をする時に恩恵を受けられればそれで十分で、それで得られる還元なんて、最寄り駅のひとつ前から歩くダイエット程度のものなのだ。
そう考えたら結果もたかが知れているし、そのために買い過ぎる行為は「痩せるために全く食べないでいたのに案外体重が減らなかった」みたいなことに陥りかねない。
「買わなさ過ぎる行為も「少しの運動なんかで痩せないと決め付けて全く運動せず、代謝の低下で太っていく」みたいなことに繋がりかねない。
ダイエットと同じで、無茶をする必要なんかないと、個人的に思う。
昨今は大々的な広告が多く出ているので、どうしてもおまけ付きお菓子で言う「メインのおまけ」的にポイント還元が見えてしまう。
しかし実際にはお菓子の方で、「何の驚きもないラムネ」がポイント還元だ。一定の店でしか使えないポイントの還元量が多かろうと、おまけぐらいの満足を得ることはまず出来ない。
あくまでま昔から変わらない身体に悪いラムネが沢山もらえるだけ。
そう肝に銘じておくことが、キャッシュレスとうまく付き合っていく秘訣だと思う。


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2019年12月12日

読解力と、思ったことを文章にするプロ

武井壮氏のツイートが話題を集めているらしい。


なるほど、確かにその通りだ。
少し話は逸れるが、日本語というのは簡単そうでとても難しい。
「簡単そう」が故に、苦手意識を持たずに思い付いたまま文章を書いて様々な誤解を生み、周りを困惑させる人がいる(それを逆手に取って稼いでいるのが、見出しオチのインチキライターだろう)

逆に「日本語が難しい」ことをしっかりと自覚し、誤解のないよう伝えることにやたら慎重な人というのも沢山存在する。そういう人が、仕事はともかくとして、プライベートぐらいシリアスな方向への誤解を防ぎたいという感情を支援して流行ったのが、絵文字という文化だ。

勿論中間も存在するとはいえ、SNSの普及で増えたのはこの2タイプだろう。
どちらが良い悪いではなく、また自覚無自覚は関係なく「文章で自分の思っていることを誤解なく伝えるのが苦手」な人達に分類できる。

一方で、ここ最近は読解力低下についてもネットニュースで見かける。
読解力が低下するのは、スマホで得られる情報が多すぎて読み切れないからというのが誰もが思いつく理由として挙げられる。
そもそもタダで得られる情報に有難味も感じづらく、書く側も「深く読まれる」ことよりも「多く読まれる」ことを目的としているので、必然的に情報の質が薄くなる。これに慣れてしまうことが、読解力の低下に起因していると考えて間違いは無さそうだ。
だから、本質としては読解力の低下ではなく、薄い情報への慣れと言った方が正しいかもしれない。
薄い情報、そう。
ネットでの心ない誹謗中傷も、薄い情報に分類される。あんなものは、限りなく薄い情報だ。
読み手のことを考えず「みんな書いてるから」というだけの理由で、感情に任せて安易にSNSで誹謗中傷を書けてしまうタイプの人間こそ、最も読解力の低下に陥りやすい。
薄い情報に慣れ、書いた後のことを考えてようがいまいが行為を行う。
文章というよりも、読み手への読解力の無さを象徴した行為だ。こんなことを繰り返していては、書き手の感情を表した文章を読解する力も落ちていくのは当然だ。
当たり前だが読解力は「文章から意味を読み取る力」だけを指しているわけではないし「書くこと」と「読むこと」は凄く密接に繋がっている。
「自分は誹謗中傷しないから無縁だ」と思ってる人もいるかもしれないが、薄い情報に慣れているだけでもコミュニケーションロスに大きく繋がるから、すれ違いとかパワハラの原因になっていると個人的に思う。もはや今の時代、読解力の無さは誰もが他人事ではないように思う。

さて、ここまではごく当たり前のことを長々と書いただけだが、どうすれば読解力は付き、自分の思っていることをちゃんと文章にできるんだろうか。
かくいう自分も、誹謗中傷こそしないが薄い情報に慣れて読解力が致命的に落ちている一人だ。結果として誤解を生む文章も、実際に沢山書いてしまっていると自覚している。みんな、ごめんなさい。

そんな自分が、ここから読解力と文章力を身に付けるためにはどうすればいいか。

読書をするのは確かに効果的に見える。自分でお金を払って購入して読んだ小説に限っては「あらすじの説明うまいね」と言っていただくことがある。
しかし、そもそも読解力が落ちているのだから、自分が説明しているあらすじというのは既に薄くなってしまっていることだろう。小説を読んだことのない聞き手の感想など、参考にしてはいけないはずだ。
そう考えると、読解力を「読むこと」に慣れて身に付けるのは難しい気がしてきた。書き手の気持ちを読み取るというのは、まだ今の自分にはハードルが高い気がする。

では「書くこと」はどうだろうか。
思い返してみれば、昔ブログを頻繁に書いていた頃は、人間としての深みは今と変わらず無かったとはいえ、少なくとも今よりは思ったことを文章にするのが得意だった気がする。
最近は全く書いていないし、書こうとしてもまとまらない。これは文章力に加え、自分の感情への読解力が落ちているからだろう。ああ、なんと情けないことか。

そういえば、たまに更新される友人のブログを昨日見てみたら、とても読みやすく、言いたいこともまとまっていた(にも関わらず、本文を越える長さでコメントしてごめんなさい)
友人はライターのようなプロではないが、自分の思ったことを文章にするプロに思えた。

そうか、そう考えていくと書くことへの慣れから全てが始まっているのかもしれない。
だいぶ筋肉痛だが、久々にブログをまめに更新してみようか。
ブログも随分と廃れた文化だが、Twitterの短さに妥協するよりも、思っていることを絞り出して書き直しながらそれなりの長さの記事にする方が、自分の思っていることと向き合えて、考えることもできて、読解力にも繋がるんじゃなかろうか。

というわけで。
しょうもない誹謗中傷をしている内弁慶の方々へ、ついでに伝えたい。
思ったことをそのままTwitterに載せるんじゃなく、まずなんでそんなことを思ったのかブログ(日記でもいいけど)に長々と書いてみてはどうだろうか。
書いているうちに自分の感情を読み解くことができるから、「本当に嫌なのは何か」も理解できて、ひょっとしたら質の高い納得感のある誹謗中傷ができるようになるかもしれないぞ。
そんな時間かけてたらそのネットニュースが流れちゃうって?
大丈夫、流れる頃には誹謗中傷する気なんて、とっくに無くなってるだろうよ。

「誹謗中傷はその程度の行為でしかない」と気付くためにも、自分はブログという偉大な文化の再興を願います。

dai9101 at 20:54|PermalinkComments(0)clip!