日記
2022年03月07日
『時には昔の話を』
5年ぐらい前にライブで一度だけ演奏した、「時には昔の話を」のカバー演奏をYouTubeへアップしました。
ライブでピアノを弾いてくれた友人とレコーディングしました。
完璧な演奏ではありませんが、伝えたい思いは演奏に込められたと思います。
良かったら聞いてやってください。
コロナ禍に加え、近隣の国であんな悲しい出来事が起きてしまっていることがとても辛く、そして恐ろしい。
当たり前だった日常を次々に奪われていく予感が拭えない中、それでも怯えながら生きていくしかない。
いつか、この歌のように今という時代を振り返ることが出来て欲しいと切に思う。振り返ることすら出来ない悲惨な未来には、なっていて欲しくない。
ライブでピアノを弾いてくれた友人とレコーディングしました。
完璧な演奏ではありませんが、伝えたい思いは演奏に込められたと思います。
良かったら聞いてやってください。
コロナ禍に加え、近隣の国であんな悲しい出来事が起きてしまっていることがとても辛く、そして恐ろしい。
当たり前だった日常を次々に奪われていく予感が拭えない中、それでも怯えながら生きていくしかない。
いつか、この歌のように今という時代を振り返ることが出来て欲しいと切に思う。振り返ることすら出来ない悲惨な未来には、なっていて欲しくない。
2022年01月11日
三年周期の暗黒期を前に思うこと。
2022年になりました。
今年もよろしくお願いします。
思い返してみて気付いたことだけど、どうやらここ10年の自分のサイクルは3年で一周している。
3年前の今は未来に絶望しか持てなかったし、6年前の今は解決出来ない問題に無力さを痛感したし、9年前の今は大切なものがようやく危ない橋を渡り切ったのに、近々手放さなければならない予感を払拭できずその通りになった。
それぞれ雲行きの怪しい年のスタートで、やる気も出ず坂を転がり落ちるような日々が続く。そして夏が終わり涼しくなる頃、落ちるところまで落ちたからかやる気がみなぎり生まれ変わったかのような元気を取り戻すというのが毎回のパターンだ。
つまり、今年も恐らくこれから暗黒期に入るか、実感がないだけで既に入っているのだろう。恐ろしいことだ。これまで通り夏ぐらいまでは辛い日々が続くことを覚悟しなければならないのは、気が重い。でもこの周期を自分で変えることは出来ないみたいなので、受け入れて覚悟を決めるしかない。
しかし、この3年間で自分はひとつだけ変わったことがある。
それは「他人が悪くても自分の中に原因を探す」という考え方になったことだ。
それまでもこうなろうと努力はしてきたけれど、自分に余裕が無ければ他人を責めることはどうしてもやってしまっていた。たとえ他人が4悪くて、自分が6悪かったとしても。
今は相手が9悪くても、自分が悪かった1をどうにかしなければと考えられるようになってきた。そりゃ常にというわけにはいかないけれど、以前と比較すればこの傾向は顕著なはずだ。
このように変わることが出来たのは、この3年間で出会った人たちのおかげだ。この3年で出会った人たちは驚くほど優しい人が多く、他人を褒め自分の過ちを探してでも見つけて謝罪できる人たちだった。
そんな人たちと出会う中で、なぜか暗黒期に自分を振り回した嫌な奴のことを思い出すこともあった。それぞれの暗黒期に、必ず自分が辛い思いをするきっかけになった存在が一人ずついるのだ。
再会することがあればまず一発殴らせてくれという気持ちはあるけれど、同時に分かろうともしなかった自分を謝罪しなければとも思えるようになってきた。その後、一発とは言わず気の済むまで殴ってくれても構わない。
やはり当時の自分にも振り回されるだけの理由があったはずだ。
そんなわけで自分の中の暗黒期が始まるのは間違いなさそうで、しばらくは苦しい時期が続くと思う。
しかし3年前から変わった考え方が妙に頼もしく、常に同じサイクルで暗黒期を呼び寄せたのはこの考え方を持てなかったからじゃないかという都合の良い推測を捨てられずにいる。それぐらい、自分の人生における大事な発見であり転換期だった3年間だった。
今回の暗黒期、今までよりは軽々切り抜けられれることを願いながら。
今年もよろしくお願いします。
思い返してみて気付いたことだけど、どうやらここ10年の自分のサイクルは3年で一周している。
3年前の今は未来に絶望しか持てなかったし、6年前の今は解決出来ない問題に無力さを痛感したし、9年前の今は大切なものがようやく危ない橋を渡り切ったのに、近々手放さなければならない予感を払拭できずその通りになった。
それぞれ雲行きの怪しい年のスタートで、やる気も出ず坂を転がり落ちるような日々が続く。そして夏が終わり涼しくなる頃、落ちるところまで落ちたからかやる気がみなぎり生まれ変わったかのような元気を取り戻すというのが毎回のパターンだ。
つまり、今年も恐らくこれから暗黒期に入るか、実感がないだけで既に入っているのだろう。恐ろしいことだ。これまで通り夏ぐらいまでは辛い日々が続くことを覚悟しなければならないのは、気が重い。でもこの周期を自分で変えることは出来ないみたいなので、受け入れて覚悟を決めるしかない。
しかし、この3年間で自分はひとつだけ変わったことがある。
それは「他人が悪くても自分の中に原因を探す」という考え方になったことだ。
それまでもこうなろうと努力はしてきたけれど、自分に余裕が無ければ他人を責めることはどうしてもやってしまっていた。たとえ他人が4悪くて、自分が6悪かったとしても。
今は相手が9悪くても、自分が悪かった1をどうにかしなければと考えられるようになってきた。そりゃ常にというわけにはいかないけれど、以前と比較すればこの傾向は顕著なはずだ。
このように変わることが出来たのは、この3年間で出会った人たちのおかげだ。この3年で出会った人たちは驚くほど優しい人が多く、他人を褒め自分の過ちを探してでも見つけて謝罪できる人たちだった。
そんな人たちと出会う中で、なぜか暗黒期に自分を振り回した嫌な奴のことを思い出すこともあった。それぞれの暗黒期に、必ず自分が辛い思いをするきっかけになった存在が一人ずついるのだ。
再会することがあればまず一発殴らせてくれという気持ちはあるけれど、同時に分かろうともしなかった自分を謝罪しなければとも思えるようになってきた。その後、一発とは言わず気の済むまで殴ってくれても構わない。
やはり当時の自分にも振り回されるだけの理由があったはずだ。
そんなわけで自分の中の暗黒期が始まるのは間違いなさそうで、しばらくは苦しい時期が続くと思う。
しかし3年前から変わった考え方が妙に頼もしく、常に同じサイクルで暗黒期を呼び寄せたのはこの考え方を持てなかったからじゃないかという都合の良い推測を捨てられずにいる。それぐらい、自分の人生における大事な発見であり転換期だった3年間だった。
今回の暗黒期、今までよりは軽々切り抜けられれることを願いながら。
2021年01月16日
『能天気な答え』
新年あけましておめでとうございます。
随分書いてませんでしたが何とか生きてます。
本当なら東京オリンピックの余韻で明るい世の中だったはずなのに、新型コロナウイルスなる元凶のせいでかつてないほどの暗い時代に入ってしまっている。
今年成人式を迎えるはずだった人たちのやりきれなさは、想像するのも辛い。
世の中が不安になると、人は無意識に責任逃れを始め、攻撃的になる。それが負のスパイラルとして確立することをこの1年で学んだ。
しかし、こんな状況では仕方のないことでもある。明日どうなるかの想像もつかないような時代に「責任逃れはやめろ」なんて言えやしない。
だから自分だけでも、意識してその負のスパイラルに加わらないよう気を付けるだけ。
新曲「能天気な答え」はそういうことも含め、今思うことをストレートに詞にしました。
今年もよろしくお願いいたします。
来年もこの挨拶ができますように。
随分書いてませんでしたが何とか生きてます。
本当なら東京オリンピックの余韻で明るい世の中だったはずなのに、新型コロナウイルスなる元凶のせいでかつてないほどの暗い時代に入ってしまっている。
今年成人式を迎えるはずだった人たちのやりきれなさは、想像するのも辛い。
世の中が不安になると、人は無意識に責任逃れを始め、攻撃的になる。それが負のスパイラルとして確立することをこの1年で学んだ。
しかし、こんな状況では仕方のないことでもある。明日どうなるかの想像もつかないような時代に「責任逃れはやめろ」なんて言えやしない。
だから自分だけでも、意識してその負のスパイラルに加わらないよう気を付けるだけ。
新曲「能天気な答え」はそういうことも含め、今思うことをストレートに詞にしました。
今年もよろしくお願いいたします。
来年もこの挨拶ができますように。
2020年02月18日
鈍感が優しい人を苦しめる
少し前、槇原敬之が覚醒剤所持で再逮捕された。
最初の逮捕は随分前だが、人気が落ち着き始めた頃で大して興味も無かったので「あの人、捕まったんだ。そういえばヤバそうな目つきしてたかも」ぐらいの認識だった。
しかし彼の脅威は、復帰後にSMAPへ「世界に一つだけの花」を提供して爆発的な売上を記録したことだ。いくら天下のSMAPと言えど、前科のある者が提供した楽曲であんなに売れたのは、やはり曲の力であり作者の力も大きく貢献したと言わざるを得ない。どん底に近いマイナスから、その状況を作り出すことができたのは脅威としか言いようがないだろう。
だから正直、彼に前科があったなんて忘れていたし、今回ばかりは「感動を返せ」と思った。海外のロックミュージシャンなんて当たり前のようにクスリをキメてるし、日本でそういうミュージシャンがいても普段は「そんなもんだよな」と納得するのだが、彼の場合は音楽性も相まってか「感動を返せ」と先に思ってしまう。
しかし、今回書きたいのはそんなことではない。
SNSが当たり前に浸透した今、今回この件についても「自分の主張」の皮を被った「鈍感で自己中な意見」が蔓延している。
中でも「そもそも何で違法なものに手を出すのか分からない。」なんていう浅すぎる意見にはさすがに呆れた。本気でそう思ってるんだろうか。だとしたら、おめでた過ぎて羨ましい。
ここ数年、ミュージシャンや芸能人の覚醒剤絡みのニュースが多いが、その原因の根底に「人気商売」ということが付いて回るのは明らかだ。その人気にすがるタイプでも、やりたいことを優先するタイプでも、生活していくためには世間の人気は意識せざるを得ない。
それでいて沢山のスタッフが自分の仕事で生活しているのだから、社長ではなくとも同じようなプレッシャーと負担がずっとかかる。
そんな状態がずっと続いていたら、人間なんておかしくなるに決まっている。だからこそ、正しいガス抜きが必要なのだ。
やはり、一番いいのは家族を持つことではないだろうか。そっち側の負担も増えるが、はっきりとした居場所ができることは間違いなくプラスだ。
家族が難しければ、何でも話せる友人というのも精神を安定させる上で非常に力になってくれるはず。
しかしどちらも難しかったり、優しさ故に負担となれば、適量以上の酒や、手を出してはいけない覚醒剤にすがってしまう…というのは善悪どうこうでは無く少し考えれば分かるはずなのだ。
そういえば、先日「職場を体調不良で簡単に休む従業員が、何でそんなすぐ休めるか、本当に分からない」というツイートを見た。
このマネージャーは、今までに仕事を体調を理由に休んだことがないらしい。なるほど、それ自体は素晴らしいことだ。
だが、残念ながら世の中は当然そんな人ばかりではないし、むしろ管理する側なら自分のようなタイプは少数だと気付かなければ組織は成り立たない。
なんなら、その正しさに苦しめられている従業員が殆どのはずだ。
あの人みたいにちゃんとしなきゃ、と考えるうちにどんどん肩に力が入っていき、少しのミスも許されないプレッシャーが生まれていくことに、このマネージャーはおそらく気付いていない。ミスをするかしないかではなく、ミスを許されない環境というのは著しく従業員を疲弊させるのだ。
このマネージャーは良くも悪くも鈍感なところがあり、それが心優しい真面目な従業員を追い込んでいる。
これは、顔が見えるか見えないかの差はあれど、覚醒剤で捕まった有名人に対する「そもそも何で違法なものに手を出すのか分からない。」という意見に繋がるところもある…というか、根本は同じだし、そういう人が書き込んでいることは想像に難しくない。
様々な角度から世の中が恵まれていく中、自己中な鈍感と心優しい繊細は二極化していく。今みたいな時代に生きていきやすいのは鈍感の方だが、歩み寄った方がいいのも鈍感の方ではないかと強く思う。
2019年12月23日
音楽聴くなら、サブスクよりも図書館を勧める話。
最近また図書館に足を運ぶようになった。きっかけは仕事で取り扱うテーマを題材にした漫画を読みたかったからだった。
図書館というのはめちゃめちゃ便利な施設で、10年ぐらい前まで毎週通っていた。
といっても書籍を借りることはあまり無く、どういう基準で選ばれているかよく分からないCDを借りまくっていた。
そこで知ったジャンルやアーティストも多く、当時音楽の道を志していた自分にとって非常にいい勉強の場となっていた。
あれから10年ほど経ち、図書館に行くことは全く無くなった。
その間に、世の中は飛躍的に便利になった。音楽はYouTubeやサブスクで、アーティストよりもジャンルで聞かれる時代。書籍も電子化が進んだ。
今となっては、図書館は静けさを売りにした自習場所としての役割しか担っていないかもしれない、なんて思っていた。
しかし、久々に足を運んで、図書館の価値はそれだけじゃないことが分かった。
図書館は、自分みたいなサブスク時代に馴染めないズボラな人間にとって救いの場だった。
探せば自分の聞きたい音楽が幾らでも探せるという、便利すぎるサブスク時代なのにどうも自分は馴染めない。
「自分の好きな音楽を探す」というだけの検索行為なのに、面倒なのだ。昔音楽の道を志していた人間にあるまじき感情だが、本当なのだから仕方ない。
あと、「音楽をジャンルで聞く」というのもあんまり好きじゃない。これは音楽の道を志していたからかもしれないが、どんな音楽でもその人の演奏や曲だから好きになるわけで、音楽性が似てても全然響かないことはあるし、逆もある。というか、そうじゃないとただでさえ狭い好きな音楽の幅がもっと狭くなってしまう。
だから「この曲いいな」と思って聞いてたところに「じゃあこれもおすすめですよ」って勧められるあのシステムは自分には不要だ。
その点、図書館はとてもいい。
相変わらずどういう基準で選ばれているのかよく分からないCDが沢山あって、自分が好きアーティストのCDもあれば、全く興味がないアーティストのCDもある。
資料数はサブスクに比べれば何百分の一かもしれないが、自分が音楽を聴くペースを考えれば十分。そして「案外限られた資料数の方が普段聞かない音楽に手を伸ばしやすい」ことに気付けたから、これからも図書館に軍配が上がることだろう。
きっと、自分みたいなタイプの人が今でも図書館に集っているはず。
そう考えると、図書館にいる人たちと触れ合うことは無くても仲間意識が湧く。
そうは言っても自分みたいなタイプは多くはないだろうし、ネットに強い高齢者だって増えてきている。図書館の未来もどうなることやらという時代だ。
そういう経緯もあり、再び愛用している図書館の素晴らしさを書き残すことにした。
これを読んだ普段図書館なんか行かない人が、年末に図書館に足を運んで魅力を知ってもらえたら、とても嬉しいです。