2019年12月
2019年12月12日
読解力と、思ったことを文章にするプロ
武井壮氏のツイートが話題を集めているらしい。
なるほど、確かにその通りだ。
少し話は逸れるが、日本語というのは簡単そうでとても難しい。
「簡単そう」が故に、苦手意識を持たずに思い付いたまま文章を書いて様々な誤解を生み、周りを困惑させる人がいる(それを逆手に取って稼いでいるのが、見出しオチのインチキライターだろう)
逆に「日本語が難しい」ことをしっかりと自覚し、誤解のないよう伝えることにやたら慎重な人というのも沢山存在する。そういう人が、仕事はともかくとして、プライベートぐらいシリアスな方向への誤解を防ぎたいという感情を支援して流行ったのが、絵文字という文化だ。
勿論中間も存在するとはいえ、SNSの普及で増えたのはこの2タイプだろう。
どちらが良い悪いではなく、また自覚無自覚は関係なく「文章で自分の思っていることを誤解なく伝えるのが苦手」な人達に分類できる。
一方で、ここ最近は読解力低下についてもネットニュースで見かける。
読解力が低下するのは、スマホで得られる情報が多すぎて読み切れないからというのが誰もが思いつく理由として挙げられる。
そもそもタダで得られる情報に有難味も感じづらく、書く側も「深く読まれる」ことよりも「多く読まれる」ことを目的としているので、必然的に情報の質が薄くなる。これに慣れてしまうことが、読解力の低下に起因していると考えて間違いは無さそうだ。
だから、本質としては読解力の低下ではなく、薄い情報への慣れと言った方が正しいかもしれない。
薄い情報、そう。
ネットでの心ない誹謗中傷も、薄い情報に分類される。あんなものは、限りなく薄い情報だ。
読み手のことを考えず「みんな書いてるから」というだけの理由で、感情に任せて安易にSNSで誹謗中傷を書けてしまうタイプの人間こそ、最も読解力の低下に陥りやすい。
薄い情報に慣れ、書いた後のことを考えてようがいまいが行為を行う。
文章というよりも、読み手への読解力の無さを象徴した行為だ。こんなことを繰り返していては、書き手の感情を表した文章を読解する力も落ちていくのは当然だ。
当たり前だが読解力は「文章から意味を読み取る力」だけを指しているわけではないし「書くこと」と「読むこと」は凄く密接に繋がっている。
「自分は誹謗中傷しないから無縁だ」と思ってる人もいるかもしれないが、薄い情報に慣れているだけでもコミュニケーションロスに大きく繋がるから、すれ違いとかパワハラの原因になっていると個人的に思う。もはや今の時代、読解力の無さは誰もが他人事ではないように思う。
さて、ここまではごく当たり前のことを長々と書いただけだが、どうすれば読解力は付き、自分の思っていることをちゃんと文章にできるんだろうか。
かくいう自分も、誹謗中傷こそしないが薄い情報に慣れて読解力が致命的に落ちている一人だ。結果として誤解を生む文章も、実際に沢山書いてしまっていると自覚している。みんな、ごめんなさい。
そんな自分が、ここから読解力と文章力を身に付けるためにはどうすればいいか。
読書をするのは確かに効果的に見える。自分でお金を払って購入して読んだ小説に限っては「あらすじの説明うまいね」と言っていただくことがある。
しかし、そもそも読解力が落ちているのだから、自分が説明しているあらすじというのは既に薄くなってしまっていることだろう。小説を読んだことのない聞き手の感想など、参考にしてはいけないはずだ。
そう考えると、読解力を「読むこと」に慣れて身に付けるのは難しい気がしてきた。書き手の気持ちを読み取るというのは、まだ今の自分にはハードルが高い気がする。
では「書くこと」はどうだろうか。
思い返してみれば、昔ブログを頻繁に書いていた頃は、人間としての深みは今と変わらず無かったとはいえ、少なくとも今よりは思ったことを文章にするのが得意だった気がする。
最近は全く書いていないし、書こうとしてもまとまらない。これは文章力に加え、自分の感情への読解力が落ちているからだろう。ああ、なんと情けないことか。
そういえば、たまに更新される友人のブログを昨日見てみたら、とても読みやすく、言いたいこともまとまっていた(にも関わらず、本文を越える長さでコメントしてごめんなさい)
友人はライターのようなプロではないが、自分の思ったことを文章にするプロに思えた。
そうか、そう考えていくと書くことへの慣れから全てが始まっているのかもしれない。
だいぶ筋肉痛だが、久々にブログをまめに更新してみようか。
ブログも随分と廃れた文化だが、Twitterの短さに妥協するよりも、思っていることを絞り出して書き直しながらそれなりの長さの記事にする方が、自分の思っていることと向き合えて、考えることもできて、読解力にも繋がるんじゃなかろうか。
というわけで。
しょうもない誹謗中傷をしている内弁慶の方々へ、ついでに伝えたい。
思ったことをそのままTwitterに載せるんじゃなく、まずなんでそんなことを思ったのかブログ(日記でもいいけど)に長々と書いてみてはどうだろうか。
書いているうちに自分の感情を読み解くことができるから、「本当に嫌なのは何か」も理解できて、ひょっとしたら質の高い納得感のある誹謗中傷ができるようになるかもしれないぞ。
そんな時間かけてたらそのネットニュースが流れちゃうって?
大丈夫、流れる頃には誹謗中傷する気なんて、とっくに無くなってるだろうよ。
「誹謗中傷はその程度の行為でしかない」と気付くためにも、自分はブログという偉大な文化の再興を願います。
武井壮@sosotakei『悪口見るのが嫌ならネットやSNSを見るな』というのは正気で言ってるのかね?
2019/12/12 17:11:19
ネットもSNSも今や特別でも最先端でも一部の人達の遊び場でもない。誰もが使う文化のひとつだ。
それを『人を貶す』という言葉の暴力を平然と行使する一部の人間のために使えなくなるなんておかしいだろ?
なるほど、確かにその通りだ。
少し話は逸れるが、日本語というのは簡単そうでとても難しい。
「簡単そう」が故に、苦手意識を持たずに思い付いたまま文章を書いて様々な誤解を生み、周りを困惑させる人がいる(それを逆手に取って稼いでいるのが、見出しオチのインチキライターだろう)
逆に「日本語が難しい」ことをしっかりと自覚し、誤解のないよう伝えることにやたら慎重な人というのも沢山存在する。そういう人が、仕事はともかくとして、プライベートぐらいシリアスな方向への誤解を防ぎたいという感情を支援して流行ったのが、絵文字という文化だ。
勿論中間も存在するとはいえ、SNSの普及で増えたのはこの2タイプだろう。
どちらが良い悪いではなく、また自覚無自覚は関係なく「文章で自分の思っていることを誤解なく伝えるのが苦手」な人達に分類できる。
一方で、ここ最近は読解力低下についてもネットニュースで見かける。
読解力が低下するのは、スマホで得られる情報が多すぎて読み切れないからというのが誰もが思いつく理由として挙げられる。
そもそもタダで得られる情報に有難味も感じづらく、書く側も「深く読まれる」ことよりも「多く読まれる」ことを目的としているので、必然的に情報の質が薄くなる。これに慣れてしまうことが、読解力の低下に起因していると考えて間違いは無さそうだ。
だから、本質としては読解力の低下ではなく、薄い情報への慣れと言った方が正しいかもしれない。
薄い情報、そう。
ネットでの心ない誹謗中傷も、薄い情報に分類される。あんなものは、限りなく薄い情報だ。
読み手のことを考えず「みんな書いてるから」というだけの理由で、感情に任せて安易にSNSで誹謗中傷を書けてしまうタイプの人間こそ、最も読解力の低下に陥りやすい。
薄い情報に慣れ、書いた後のことを考えてようがいまいが行為を行う。
文章というよりも、読み手への読解力の無さを象徴した行為だ。こんなことを繰り返していては、書き手の感情を表した文章を読解する力も落ちていくのは当然だ。
当たり前だが読解力は「文章から意味を読み取る力」だけを指しているわけではないし「書くこと」と「読むこと」は凄く密接に繋がっている。
「自分は誹謗中傷しないから無縁だ」と思ってる人もいるかもしれないが、薄い情報に慣れているだけでもコミュニケーションロスに大きく繋がるから、すれ違いとかパワハラの原因になっていると個人的に思う。もはや今の時代、読解力の無さは誰もが他人事ではないように思う。
さて、ここまではごく当たり前のことを長々と書いただけだが、どうすれば読解力は付き、自分の思っていることをちゃんと文章にできるんだろうか。
かくいう自分も、誹謗中傷こそしないが薄い情報に慣れて読解力が致命的に落ちている一人だ。結果として誤解を生む文章も、実際に沢山書いてしまっていると自覚している。みんな、ごめんなさい。
そんな自分が、ここから読解力と文章力を身に付けるためにはどうすればいいか。
読書をするのは確かに効果的に見える。自分でお金を払って購入して読んだ小説に限っては「あらすじの説明うまいね」と言っていただくことがある。
しかし、そもそも読解力が落ちているのだから、自分が説明しているあらすじというのは既に薄くなってしまっていることだろう。小説を読んだことのない聞き手の感想など、参考にしてはいけないはずだ。
そう考えると、読解力を「読むこと」に慣れて身に付けるのは難しい気がしてきた。書き手の気持ちを読み取るというのは、まだ今の自分にはハードルが高い気がする。
では「書くこと」はどうだろうか。
思い返してみれば、昔ブログを頻繁に書いていた頃は、人間としての深みは今と変わらず無かったとはいえ、少なくとも今よりは思ったことを文章にするのが得意だった気がする。
最近は全く書いていないし、書こうとしてもまとまらない。これは文章力に加え、自分の感情への読解力が落ちているからだろう。ああ、なんと情けないことか。
そういえば、たまに更新される友人のブログを昨日見てみたら、とても読みやすく、言いたいこともまとまっていた(にも関わらず、本文を越える長さでコメントしてごめんなさい)
友人はライターのようなプロではないが、自分の思ったことを文章にするプロに思えた。
そうか、そう考えていくと書くことへの慣れから全てが始まっているのかもしれない。
だいぶ筋肉痛だが、久々にブログをまめに更新してみようか。
ブログも随分と廃れた文化だが、Twitterの短さに妥協するよりも、思っていることを絞り出して書き直しながらそれなりの長さの記事にする方が、自分の思っていることと向き合えて、考えることもできて、読解力にも繋がるんじゃなかろうか。
というわけで。
しょうもない誹謗中傷をしている内弁慶の方々へ、ついでに伝えたい。
思ったことをそのままTwitterに載せるんじゃなく、まずなんでそんなことを思ったのかブログ(日記でもいいけど)に長々と書いてみてはどうだろうか。
書いているうちに自分の感情を読み解くことができるから、「本当に嫌なのは何か」も理解できて、ひょっとしたら質の高い納得感のある誹謗中傷ができるようになるかもしれないぞ。
そんな時間かけてたらそのネットニュースが流れちゃうって?
大丈夫、流れる頃には誹謗中傷する気なんて、とっくに無くなってるだろうよ。
「誹謗中傷はその程度の行為でしかない」と気付くためにも、自分はブログという偉大な文化の再興を願います。