2019年12月

2019年12月29日

尾崎豊とSIONの共通点と対照的な生き方

「誰が尾崎豊を殺したか」という本を図書館で借りて読んだ。
誰が尾崎豊を殺したか
大楽 光太郎
ユニオンプレス
1993-04

いかにも胡散臭いタイトルで、マスコミが適当なことをさも事実かのように書いた本だろうと思っていたが、実際はむしろマスコミや周りの人々から尾崎豊を守るため、尾崎豊実兄の康と孤軍奮闘した大楽光太郎の記録だった。
全て鵜呑みにすることもできないが、これを出版するのはわざわざファンやマスコミに叩かれに行くようなもので、それだけの覚悟を固めて何が何でも暴きたい真実があったと推測できる。
かなりざっくりまとめれば、尾崎豊は結婚した繁美さんと生前うまくいっていなかった。また、とある2人の共通の友人と尾崎豊は亡くなる数年前に絶交している。
しかし繁美さんはずっと繋がりがあった。尾崎豊が亡くなった後、個人事務所は実兄の康が社長となり、その友人である大楽もまた役員となる。しかし、尾崎豊が絶交していた共通の友人は繁美さんをそそのかし、2人を会社から追い出したのだという。
それは莫大な財産とその可能性を搾り取ろうという算段だった、という内容だ。
もう一冊、10年後に裁判で繁美さんに勝訴した大楽が書いた「最後のひとかけら」も併せて読んだ。
最後のひとかけら―誰が尾崎豊を殺したか 最終章
大楽 光太郎
サウンドシャワーパブリッシャー
2003-05-01

どうもその共通の友人は尾崎豊が生きている頃から繁美さんと結託して死に追いやったのではないか…ということまで書いてある(あくまで推測の域を出ない)
大楽は、尾崎豊が亡くなる三ヶ月前に「もう信頼できる人が周りにいない。大楽さんなら昔から知ってるし信頼できるから、マネージャーになってくれ」と懇願され、マネージャーになっている。
そんな背景からも考えると、やはり亡くなった後も尾崎豊が信頼していなかった奴等に勝手なことはさせたくなかったことだろう。しかし、その後ろに繁美さんがいては滅多なことが出来なかったのも仕方のないことだ。繁美さんだけでなく、まだ小さい実子の裕哉君もいたのだから。
大楽の書き方だと、繁美さんがとてつもなく悪い女のように読み取れてしまうが、きっと彼女にも言い分はあるだろうし決めつけることはできない。何せ、生前の尾崎豊は不倫スキャンダルもあるし覚せい剤所持で捕まってもいるわけで、繁美さんにはかなりの負担をかけている事実もある。

尾崎豊のひと回り歳上のアーティストで、このブログでも度々紹介しているSIONというアーティストがいる。
尾崎豊が野音のステージから飛び降りた、アトミックロックフェスティバルで2人は共演もしている。
美青年の尾崎豊と、周りを寄せ付けない風貌のSION。この2人のデビューアルバムに収録された楽曲に、驚くほど似ている楽曲がある。

尾崎豊「十七歳の地図」

SION「風向きが変わっちまいそうだ」

一番似ているのは曲調だが、メッセージもどことなく似ている。「十七歳の地図」では世知辛い大人や世間の中で強く生きようという決意が、「風向きが変わっちまいそうだ」では音楽をやるために上京したのに住む部屋や働き口にも満足にあり付けない葛藤がそれぞれに歌われている。
もしかすると2人は、似たような音楽を似たような形で表現したかった同志なのかもしれない。いや、きっとそんな気がする。
尾崎豊が商業的な成功を求めなければ、求めたとしても早い段階で挫折していたとしたら、メッセージは限りなくSIONに近付いていたことだろう。

しかし、2人の歩みは対照的だ。
尾崎豊は求められるイメージにしっかりと応えて十代を中心とした支持を得ると瞬く間にスターとなり、SIONはデビュー当時仕事にも行かずマネージャーを困らせ自らチャンスを捨ててきた。
まるでアリとキリギリスみたいな対比だが、尾崎豊は当然消耗し、覚せい剤にも手を出し若くしてこの世を去ってしまう。
SIONはマイペースに自分の音楽を崩さずにアルバムを出し続け、何度かレコード会社との契約を切られたりもしているが還暦を前に未だ健在だ。
尾崎豊は謙虚で礼儀正しく、周りの期待に応えようという無理が重なって自分を追い込んだ性格だったらしい。
今ではすっかり丸くなってしまったSIONだが、デビュー当時の自分中心なSIONのエピソードを知っていたら、尾崎豊はさぞ羨ましがったことだろう。
彼のように生きられたら、伝説的な存在にはなれていなかったかもしれないが、あんなに早くに亡くなることも無かったかもしれない。今ごろ、ライブハウスで根強いファンと共に自分のやりたい音楽をやりたいように演奏していたのではないだろうか。

最後に、彼ら2人には恵まれた相棒がいたという共通点もある。
SIONは、デビュー当時からバンマス、プロデューサーとして支え続けてきたギタリスト松田文がいた。
尾崎豊には、子供の頃から自分の理解者で、最後の三ヶ月だけはマネージャーにもなってくれ、亡くなった後も尾崎豊の理解者でありマネージャーであり続けた大楽光太郎がいた。
形は全く違えど、素晴らしい音楽家である2人の最大の幸運はここに尽きるだろう。


2019年12月27日

「好きなことを仕事にする」が蔓延する違和感と恐怖

月収6桁の中学生ブロガー、「就職したくないから稼げるようになりたい」
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191225-00209441-hbolz-soci

なんともイラッとさせられる記事だ。
だがインタビューなんてバズらせるために平気で嘘も書くし誤解を生む表現に変えたりもするから、彼自身は否定しない。
問題は「好きなことを仕事にする」人がどんどん増えていることだ。文字面だけ見れば素晴らしいことに思えるが、果たして実際はどうなのか。
この記事で気になるのは「学校には行きたい時しか行ってないし、嫌い。教え方が古いし、勉強できないからって頭が悪いとは限らない。そもそも学校の勉強は将来のためにならない」という考えを話しているところだ。
中学3年でこれだけの収入があるだけでも凄いことだし、注目されて記事になるほどの影響力でこんなことを話してしまっては、かなり危険だ。
学校に対する考えは、確かにその通りかもしれない。というか、同じようなことは誰しも思う。かといって、誰でも彼みたいになれるとは限らないところを見落としてはならない。
「好きなことを仕事にする」のは確かにハードルが下がったかもしれない。SNSが普及し、情報は溢れているこの時代に「好きなことを見つけて仕事にする」というのはむしろ必要な能力として認識され始めているかのように思う。
しかしその一方で「好きなことを見つける」ハードルは上がっている。何でも出来てしまう、情報も十分なこの時代にひとつだけ選択するというのは迷ってしまう人も多いはず。
そういうところから繋がって、相談相手を作る意味でも学校に行くことは大事だ。上から目線で「合わせてる」なんて言い方をするのではなく、同年代は何を考え、何に興味を持っているか知るのもある種学びであり勉強だ。人を知ることを通して自分も知ることもできるのだから、生きていく上で大事な勉強だろう。
学校にいるのは気の合う友達ばかりじゃないからこそ、学べることも多い。

ついでに、学校の勉強は生きていく上で本当にためにならないのだろうか。
そんなことはない。
あれだけ苦痛な勉強をする経験、否が応でも周りと比較される経験は、忍耐力を鍛えることができる。
好きなことを仕事にできなかった人間には、生きていく上でとても大事な力だ。
好きなことを仕事にした人間だって、好きなこと「だけ」を仕事にできるはずがないので、やはり忍耐力は大事だ。
「苦手なことは人に任せるから大丈夫です」なんて言われるかもしれないが、人に任せるということにも忍耐力は必要になってくる。逃れられないのだ。

好きなことを仕事にできなかった人間は、好きなことを仕事にする人間の台頭で、徐々に居場所を無くしつつある。
しかし、だからといって生きる意味がないなんてことは絶対にない。
好きなことを仕事にする人ばかりでは、その人たちがやりたがらない仕事をする人間がいなくなり、社会が回らない。好きなことを仕事にするのは勝手だが、そうではない人も一定数必要なのだ。

なんとなく「好きなことを仕事にする」というフレーズが美化されたものと感じてしまうので、それがなぜなのか突き詰めて考えてみると「好きなこと=お金」で、「好きな仕事=楽して稼げる方法」でしかないのだろうと思う。
それの何が悪い、とは言わないが、人としての魅力は個人的には感じられない。
仕事は嫌だけど生きていくためにがんばっている人だとか、欲しいものが買いたくて面倒な人間関係に消耗しながら日々過ごしている人の方が、やはり魅力的に感じられてしまうし、生きていく上での忍耐力は確実に持っていると思う。

だから、好きなことなんか見つけられずに好きでもない仕事をしている方々、あなた達の方が上です。肩を落とさずに。
今年もお疲れ様でした。


dai9101 at 17:36|PermalinkComments(0)clip!記事を斬れ! 

2019年12月23日

音楽聴くなら、サブスクよりも図書館を勧める話。

最近また図書館に足を運ぶようになった。きっかけは仕事で取り扱うテーマを題材にした漫画を読みたかったからだった。
図書館というのはめちゃめちゃ便利な施設で、10年ぐらい前まで毎週通っていた。
といっても書籍を借りることはあまり無く、どういう基準で選ばれているかよく分からないCDを借りまくっていた。
そこで知ったジャンルやアーティストも多く、当時音楽の道を志していた自分にとって非常にいい勉強の場となっていた。
あれから10年ほど経ち、図書館に行くことは全く無くなった。
その間に、世の中は飛躍的に便利になった。音楽はYouTubeやサブスクで、アーティストよりもジャンルで聞かれる時代。書籍も電子化が進んだ。
今となっては、図書館は静けさを売りにした自習場所としての役割しか担っていないかもしれない、なんて思っていた。

しかし、久々に足を運んで、図書館の価値はそれだけじゃないことが分かった。
図書館は、自分みたいなサブスク時代に馴染めないズボラな人間にとって救いの場だった。
探せば自分の聞きたい音楽が幾らでも探せるという、便利すぎるサブスク時代なのにどうも自分は馴染めない。
「自分の好きな音楽を探す」というだけの検索行為なのに、面倒なのだ。昔音楽の道を志していた人間にあるまじき感情だが、本当なのだから仕方ない。
あと、「音楽をジャンルで聞く」というのもあんまり好きじゃない。これは音楽の道を志していたからかもしれないが、どんな音楽でもその人の演奏や曲だから好きになるわけで、音楽性が似てても全然響かないことはあるし、逆もある。というか、そうじゃないとただでさえ狭い好きな音楽の幅がもっと狭くなってしまう。
だから「この曲いいな」と思って聞いてたところに「じゃあこれもおすすめですよ」って勧められるあのシステムは自分には不要だ。
その点、図書館はとてもいい。
相変わらずどういう基準で選ばれているのかよく分からないCDが沢山あって、自分が好きアーティストのCDもあれば、全く興味がないアーティストのCDもある。
資料数はサブスクに比べれば何百分の一かもしれないが、自分が音楽を聴くペースを考えれば十分。そして「案外限られた資料数の方が普段聞かない音楽に手を伸ばしやすい」ことに気付けたから、これからも図書館に軍配が上がることだろう。
きっと、自分みたいなタイプの人が今でも図書館に集っているはず。
そう考えると、図書館にいる人たちと触れ合うことは無くても仲間意識が湧く。

そうは言っても自分みたいなタイプは多くはないだろうし、ネットに強い高齢者だって増えてきている。図書館の未来もどうなることやらという時代だ。
そういう経緯もあり、再び愛用している図書館の素晴らしさを書き残すことにした。
これを読んだ普段図書館なんか行かない人が、年末に図書館に足を運んで魅力を知ってもらえたら、とても嬉しいです。


dai9101 at 18:36|PermalinkComments(0)clip!日記 

2019年12月20日

立場が人を劣化させる話

今まで働いてきた中で、立場が人を劣化させる怖さを書いてみる。

どんな仕事でも、「人には責められづらいのに人を責めやすい」職種というのは存在する。
いわゆるお客様窓口は、それに該当する。「お客様の声」を伝える立場なだけに、制作チームを責めることは容易だ(責める、という表現は誤解を生みそうだが、要は意見を伝えるという意味)
責める内容がどうあれ、制作チームは「お客様の声」としてひとまず聞くしかない。何せ、制作に集中したい彼らの代わりに盾となって様々な声を聞いてくれているのだから。
自分はその立場に長いこと在籍していた。面倒な客やクレーマーも勿論いたが、逆に制作チームとのやり取りで居心地の悪さを感じていた。
自分の言うことに耳を傾けてくれると言えば素晴らしいが、そもそも制作チームとお客様窓口を分けてしまうと、それだけで考え方に齟齬が生まれてしまう。
組織が大きくなれば仕方のない部分ではあるが、主体性を持って全体のことを考えながら一方の仕事を誰かに任せるというのは至難の技だ。というか、そんな難しいことをしようとする人自体がなかなかいない。
自分の仕事を突き詰めれば突き詰めるほど、乖離は拡がり、責任のなすりつけ合いになっていく。お客様窓口が制作チームに心ないことを吐き捨てるような場面は数え切れない程見てきたが、そんなやり方でも優位に立ててしまうお客様窓口という立場は、明らかに間違った人格形成を手伝っていたように思う。
結果として、コミュニケーションを取るのが得意でそういう仕事をしていたのに、一方でコミュニケーションが取れない存在として扱われることに繋がってしまう怖さがある。何とも本末転倒な話だ。
しかし、無自覚でそうなってしまっている人は沢山見てきたし、逆にそれぐらい頑固なことを求められる場面もあるから、周りも正そうとはしない。一番危険なのは、その世界が当たり前になってしまうことだ。お客様窓口はあくまで職種のひとつでしかなく、目に見える技術職というわけでもない。
極端な言い方をすれば、手に職を持っているわけでもないのに、周りが耳を傾けてくれる状況は、余命幾ばくもない老人や裸の王様のような扱いや見られ方をする。これを劣化と呼ばずにはいられないだろう。
勿論、そんな状況を自覚して立場を盾に使ったりせずに成長していく人もいる。その先に顧客ではなく従業員の窓口という、マネージャー職がありそのためにキャリアを積むと考えることこそがセオリーなのだから。
「お客様窓口はクレームが多くてメンタルが大変」という世間的な難易度もあるが、「ある種恵まれた環境という危うさ」が付き纏うということを自覚し続けることが、最も本質的に高い難易度だと思った。


dai9101 at 21:12|PermalinkComments(0)clip!内面 | 日記

2019年12月13日

キャッシュレスとダイエットは似ている。

そんなわけで、もう少しぼんやり思うことをまた書いていきます。

「キャッシュレス」というフレーズが浸透し出したのはいつからだろうか。
やはり安倍首相が慣れない口ぶりで「キャッシュレスを推進します。2025年までに決済比率を40%まで引き上げるのが目標です」と発表した辺りからか。
「キャッシュレスによるポイント還元は、消費増税の対策」なんて表向きは完全に見せかけで、誰がどれだけ使ってるかを管理したい目的があるのは明らかだ。
そんな冷めた視線をよそに、「◯◯pay」は令和元年の今年に流行語へノミネートされるほどよく聞くフレーズとなり、世の中へ浸透した。
そりゃあ1円でも安く買えるなら、戻ってくるのなら、飛び付くのが人間の性だ。しかも増税が絡んだ今回は店舗側が「実質安く売れる」というメリットまである。政策の真の目的なんか、いちいち考えていたら損するだけだ。その考えは確かにそうかもしれない。

自分もキャッシュレスは使っている。というか、キャッシュレスなんてフレーズが使われる前からクレジットカードは使用していたし、電子マネーで支払いもしていた。
ポイント還元の方も、元祖となるスタンプカードの頃から飛び付いて貯めていた。大した還元はないのに、得した気分になれる。そのためにやたらとスタンプを押してもらってた頃が懐かしい。
貯金を崩さないと支払えないような額をカード払いにして、ろくに計算もせず付帯するポイントサービスに期待したら大きく裏切られたことも何回もある。
そんなわけで、キャッシュレスに10年以上振り回されてきた自分が今思うのは、「こんなものに期待するな」ということだけだ。
たかだか数%の還元のために、無駄な浪費をしていては本末転倒もいいとこだ。
かと言って、生活する中で何も買わないなんて極端なことも現実的に無理な話。
付き合い方として大事なのは、ダイエットと同じで「いかに生活に組み込ませるか」だ。
日々生活する中で必ず購入しなければならない買い物をする時に恩恵を受けられればそれで十分で、それで得られる還元なんて、最寄り駅のひとつ前から歩くダイエット程度のものなのだ。
そう考えたら結果もたかが知れているし、そのために買い過ぎる行為は「痩せるために全く食べないでいたのに案外体重が減らなかった」みたいなことに陥りかねない。
「買わなさ過ぎる行為も「少しの運動なんかで痩せないと決め付けて全く運動せず、代謝の低下で太っていく」みたいなことに繋がりかねない。
ダイエットと同じで、無茶をする必要なんかないと、個人的に思う。
昨今は大々的な広告が多く出ているので、どうしてもおまけ付きお菓子で言う「メインのおまけ」的にポイント還元が見えてしまう。
しかし実際にはお菓子の方で、「何の驚きもないラムネ」がポイント還元だ。一定の店でしか使えないポイントの還元量が多かろうと、おまけぐらいの満足を得ることはまず出来ない。
あくまでま昔から変わらない身体に悪いラムネが沢山もらえるだけ。
そう肝に銘じておくことが、キャッシュレスとうまく付き合っていく秘訣だと思う。


dai9101 at 20:25|PermalinkComments(0)clip!日記